雪解けの山を撮影にしに行き偶然発見

やけに飛行機(戦闘機?)の多い昨今。物騒ですが、訓練という話がありました。
あまりに多いのでちゃんと新聞やニュースで伝えて欲しいものです。世が世だけに心配になります。

雪解けの八海山を撮りに行きたくて浦佐周辺をドライブ。

「あれ?」

2022/5/11 撮影

「石碑がある!」

浦佐の魚沼基幹病院前の通り県道265を東地区方面に進み、茗荷沢集落の手前に大きな石碑を発見。

これは立派な!田中角栄さん揮毫ですね。角栄さんの名前の字は特徴があるのですぐにわかるようになりました。

国営魚野川東部開拓建設事業大和工区竣功記念

すごそうな名前です。

この辺り、八色原は昔は荒れ地で農作物には向かず未開拓の地であったことは聞いておりました。
開拓の碑なのですね。興味深いです。

禅語:春水満四澤(しゅんすいしたくにみつ)

なんのことでしょう?調べました。
こちらを参考にさせていただきました→ https://mame-sadou.com/zengo-shunsui

「禅語」で「しゅんすいしたくにみつ」と読むそうです。

「春になって雪解け水があちらこちらの沢に満ちてくる」と言った意味です。情景が浮かぶ、美しい言葉ですね。まさにいまの時期だと思います。

この場所の横にはすぐそばに水無川が流れています。

水無川は夏場は枯れたようになりますが(雨の時は洪水のようになります)、春先はまさに八海山や駒ケ岳からの雪解け水が流れ込みます。同時に木々が青くなり、虫や鳥たちが飛び交い、生命の力強い息吹が感じられます。

側面を見てみよう

【沿革】

八色原は八海山中之岳駒ヶ岳の越後三山に源を発する水無川によって形成された扇状地で、古来より未開の地として放置され草木は鬱蒼と茂り水無川の氾濫の度にその洪水は容赦なくこの地を襲い、土砂流出により起伏の多い状態を呈した山林原野でその中に小規模の農地が点在していた地帯であった。

当地の開拓は用水確保の困難性と耕土不足から夢とされていたが第二次世界大戦直後の食糧難に直面しこの地を穀倉地帯とする機運が急速に昂まり、これが実現のため地元民総意熱望の許に国に請願陳情した甲斐あって昭和三十三年度から農林省直轄で調査が開始された。

三十六年開拓パイロット事業※の制度化と共に同事業の指定地域となり三十九年までに調査と全体実施設計を完了。四十年に北陸農政局魚野川東部開拓建設事業所が大和町浦佐に設置され大和工区に着手、六日町工区は四十一年から着手した。

大和工区は用水を魚野川からのポンプ揚水と水無川頭首工から取水し圃場配水は主としてパイプかんがい方式とした。当初の造成計画面積は「田七」「畑三」の田畑輪換であったが昭和四十五年度から米の生産調整に伴う開田抑制により同年から水平畑造成として工事を施工した。

この間開田を縮小する計画変更の同意、五十年には水平畑に稲の植付けによる青田刈り等幾多の難曲に直面しながらもこの大事業を、北陸農政局、新潟県、大和町、小出町、八色原土地改良区組合員一体となって遂行したものである。

この事業完成により地域農業の振興と経済の発展に大きく資するものと確信する。

-途中略-

標準区画 三〇アール(三〇米×一〇〇米)
事業費 三六億円
工事期間 着工昭和四十年度 完工昭和五十三年度

昭和五十三年十一月 建立 八色原土地改良区

※「開拓パイロット事業」という言葉が全くピンとこなかったので調べたところ、「戦後開拓」のことで、食糧増産と第二次世界大戦からの復員や引き揚げ者の就業確保として国策で行われた事業であるそうです。

多くの人が関わり、大プロジェクトだったと想像できます。その甲斐あって、荒れ地だったのが想像できないくらい、今は広大な面積の農地に田んぼ、畑が整然と広がっています。

場所